永瀬vs天彦
第83期名人戦の挑戦権は、辛い時間を耐え忍んだ天彦がついに勝ちを掴んだかと思われた瞬間、急転直下で永瀬の手に転がり込んだ。深夜、日付が変わりかけても互角が続く熱戦だった。
永瀬と天彦は、現代の将棋界の中で、対極の思想を代表する二人に見える。永瀬はAIの示す最善手を追求し、序盤からかなりの手数までを事前研究で進める「居飛車」を主戦場として、たびたびタイトル戦に登場している。かつては受けの「棋風」を前面に出した「負けない将棋」がトレードマークだったが、近年はAIからの影響を公言し、終盤でも最善最短での勝ちを目指す将棋にシフトしている。一方の天彦は、AIの評価が低い現代の欠陥戦法「振り飛車」にむしろこの数年で鞍替えただけでなく、新戦法は難しいと言われる現代において斬新な構想を生み出しながら、一定の勝率を出している。「芸術性」や「アマチュアから見ても面白い」といった言葉を繰り返し口にし、「人間」の擁護者として振る舞っているように見える。
新型コロナ流行期に、象徴的な事件があった。切迫した最終盤、マスク着用義務という臨時規定に天彦が違反し、永瀬がそれを訴えて勝ったのだ。人間界のルールはふつう、曖昧な、なあなあな余白を残して運用される。未成年は飲酒してはいけないが、まあ、いいのである。当時、顔が真っ赤になるほど頭を回転させる終盤戦でマスクが思考を鈍らせるという意見や、言葉を発しない対局中のマスク着用の効果を疑問視する声があった。現実に柔軟な運用が行われたことがあっただろうし、天彦も、まあ、と思ったわけだろう。天彦は人間としてふるまい、永瀬は機械的に対処した。天彦は振り飛車転向前の「絶望」をたびたび語っているが、その中にはAIに支配された盤上だけではない、この事件のことも含まれていると想像する。
機械対人間、永瀬対天彦。しかし実のところ天彦は、早い段階からAIを積極的に取り入れた棋士の一人でもあった。振り飛車の前の天彦の主流戦法にして、彼の名人獲得の原動力となった「横歩取り」に対し、AIが推奨する対策「青野流」の優秀性を、天彦は多くの棋士が採用するようになる前から認識していたのだという(棋士藤井猛との対談より)。それに、現在に至ってもなお、AIへの強い関心を示しているのは天彦のほうだと見ることもできる。AIが数値として示す結論、例えば振り飛車の数百点分の不利性は、人間にとってどのような意味を持つのか。数百点という数値の質的なバリエーションはどう理解しうるのか。単に人間が弱すぎてAIの示す数百点を守りきれない(から無視していい)という話ではない。AIと人間の接面に強い関心を示しているのが天彦であり、その立場からすれば、AIの示す最善手を追うだけの勉強法は、むしろAIから目を背けているとすら言える。他方、2012年刊行の著者『永瀬流 負けない将棋』で、永瀬はAIへの否定的な見解を語っていたのだった。永瀬の考え方は、ある意味で、AIを知らなかった時代における最善手追求と変わらない。AIはAIでなくてもよく、だからこそ反AIから親AIへの転換も容易だった。永瀬は藤井聡太への尊敬の念を公言し、彼に勝つためには人間を辞めなければならないと発言して話題になった。いかにも永瀬らしい発言だ。が、その藤井の尊敬に値する特徴として真っ先に挙げられるのは、彼の謙虚さであり、礼儀正しさであり、例えば研究会で先に来て立って待っているという、人間らしい配慮だった。
実際に、ということなのかはともかく、天彦が、常に数百点評価の低い将棋を、五分にし、最終的に優勢にした。六時間でスタートする持ち時間は、その時点で両者十分弱だった。永瀬が一手指してトイレに立った。天彦も一手進めて、追うように小走りで部屋を出た。二人がいない状態が一分位続いた。永瀬が戻ってきてすぐに金を打った。天彦が戻ってきて、これまたほとんど考えずに馬を逃げた。これが敗着だった。
自分の目から見ても馬を逃げる手はありえないように思えた。解説の佐々木大地も「正直天彦先生なら一、二分落ち着いて考えれば正解を選べたのではないか」と言っていた。終局後、天彦も真っ先にそこを振り返っていた。
明らかにトイレで何かがおかしくなった。時間を残すことを優先して早めに指した、とはいえ、天彦はその時点でまだ九分残していた。朝の十時から深夜の十二時まで指し続けて、AIの言うマイナス三百点を覆して、勝てば六年ぶりの名人挑戦という将棋で、最終的に、敗因はトイレだった。
永瀬にはぜひ名人を獲って欲しい。自分とも歳が近い二人の今後の活躍に期待します。
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